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その界隈では大変有名な大学教授である田村正勝先生は、早稲田大学社会科学部において"社会哲学"を教えている。中でも先生の「社会科学原論」は名物講座となっている(た)。数年前までは「社会科学方法論」という名前であり、早稲田大学社会科学部に入学したものは必須で受けなければいけない講義である。

話を聞いていて思うのだが、先生は本当に頭がよろしい方である。経済・法学・商学などを総合的に捉える「社会科学」は、その昔の意味での「哲学」と同じようなものであり、大変難しい学問である。しかし、そのような難しい学問を成し遂げているのが講義を聴いただけでよくわかる。しかし、それをまた自覚しているところに悪い癖がある(笑)。ときたまもらす「僕が本当に考えていることを本に出しても売れませんから、実は出版している本にはほんの少しのほんとうとほとんどは嘘なのです。レベルを落として書いてないと売れないんですよ」といった発言などによく現れているが、これもまた本当のことなのだろう。

まあこのように、良くも悪くも「早稲田大学社会科学部」 の「社会科学」の中心に立ってきた人であり、その昔は学部長としてこの学部の舵取りをしてきた人間が、今年を最後に大学を去る。

僕ははっきりいって彼を「教授として」あるいは「人間として」は好きではない。何故なら、教授として生徒とのコミュニケーションをあまりとろうとしない。馬鹿は相手にしたくない、というスタンスが見え隠れする。さらにそれは後者にも通じる。馬鹿は相手にしたくないというエリート思考が人間として気に入らない。まるで明治の文豪(誰とは言わないけれど)のように、俗世を冷ややかな目で見ているのがかっこいいと思っているのか。(で、ありながら、早慶戦云々の話のように、自らも俗世の流れに流されていることをも認めているが・・・)さらには民主党のブレーンとして活躍している彼が、時折漏らす自民党"のみ"を批判した政治分析も、われわれを洗脳するようで腹が立つことがある。

いろいろ理由は並べたものの、しかし、それでも!先生は「早稲田大学社会科学部」に存在する必要があると思う。彼がいない早稲田大学社会科学部は、以前までと中身も外装も変わってしまうだろう。

備考ではあるが、現在十四号館(社会科学部学部塔)がキレイでいるのは、彼が提言したからだそうだ(これも自画自賛の一部である(笑))。




さて、ではこれから社会科学部はどのような形になるのか。(教授が大学を去るのは確定であるのでむしろこちらに目を向けるべきだ)

現在、早稲田大学はwaseda vision 150 (http://www.waseda.jp/keiei/vision150/)なるものを示している。ワセダは相当「グローバル化」に拘っているようであるので、社会科学部も当然英語教育などに力を入れるのだろう。現在も、実験的ではあるのか、一部の学生はトーイックの問題集や、ニュース英語を「英語教育」として取り入れられている。

また、ゼミの選抜が早くなることは何を意味するのだろうか?社会科学部は学際的研究、つまり社会全体を俯瞰したような学問を提唱していた。しかし、今年に入り、ゼミ入りを早めるということは「全体的な学習」にも一応、専門分野というか「自分の視点」をひとつもって社会を見て欲しいということなのであろうか?
しかし、このような変革が起きているものの、学生本人には不評である。何故なら、春期の授業の間にゼミを決定してしまわなければいけないのだ。猶予は入学後から5ヶ月で、その間に自分がなにを専門に残りの三年間学びたいか決定しなければならない。

最後に、これは受験という視点から早稲田大学社会科学部を捉えた場合であるが、なんと入学偏差値が尋常じゃなくあがっているのだ。元夜間学部であり、今のところ就職実績も少ないのに、全体のレベルが上がってきている(というよりむしろワセダ側が意図的にあげている?)。政経法商の実学部系にも匹敵する入学偏差値をたたき出しているデータもある。知的能力の高いものがより多く、社会科学部に入ってきているということだ。

まとめると、グローバルにものごとを考え・ひとつの視点を極めた上で全体も俯瞰し、そして本質的に知的能力が高い、そんな学生をこれからの社会科学部は求め、成長させていくこととなる。